2011年 03月 24日
東京地方連合より通信(千葉県旭市の被災状況)
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<左は、飯岡地区>
旭市は千葉県北東部に位置し、九十九里の最北端にある街です。2005年に旭市と海上(うなかみ)町と飯岡町、干潟町と合併し新しい旭市になりました。
東北関東大震災では、地震と津波の被害に見舞われました。3月21日現在で12名の方が亡くなり、3名の方が行方不明の状況です。家屋の被害は、全壊339件、半壊164件です。このうち、全壊家屋の254件、半壊家屋の139件が津波による被害、その他は地震による、特に地盤の液状化によるものです。この被害は、海側の合併前の飯岡町に集中し、このような大きな被害がありましたが、今回の震災では東北地方の状況があまりにすさまじく原発事故という深刻な事態を抱える中、マスコミ報道などであまり目を向けられていません。千葉県の地方紙や地元テレビ局では取り上げられていますが千葉県内でも被害状況を把握していない方がいるのも事実です。
東京地方連合では、連合の地域である千葉県の被害にも目を向けたいと願っておりましたが今回、旭市出身の岩瀬礼氏(綾瀬小園教会主事、女性連合事務)の協力を得て現地を訪問する機会が与えられました。訪問日は3月22日、宣教研究所運営委員長で栗ヶ沢教会牧師の吉高叶氏に同行願い、岩瀬礼氏、中田の三名で旭市をお訪ねしました。
<右は、津波で破壊された家屋>
朝9時過ぎに岩瀬氏のご実家にお邪魔し、地震の時の状況を直接お母様から伺うことができました。非常に強い揺れを感じた時の恐怖や津波で被害を受けた地域のことなどお話ししてくださいました。続く余震、そして、千葉県東方沖を震源とする大地震の可能性に関する報道が重くのしかかっておられるようでした。「東北のような津波がきたらこのあたりも助からない」とたびたびおっしゃっていました。
お話を伺った後、ご案内いただき海上公民館と飯岡保健福祉センターに設けられた避難所をお訪ねしました。訪問した時間は、避難所から被災した家屋や家財道具の片付け、仕事に出られている方が多くおられるとのことでした。飯岡保健福祉センターは、ボランティアセンターともなっており私たちがお訪ねしたときも、係の方はボランティア希望の方と電話で打ち合わせをしておられました。突然の訪問にもかかわらず、赤十字のボランティアの方が避難所の状況やボランティアの受け入れのことなど丁寧に説明してくださり、大変恐縮しました。
飯岡保健福祉センターへ向かう途中、もっとも被害の大きかった飯岡地区を訪ねましたが、飯岡地区に至る道は海に近づくにつれ液状化で道が上下にうねり、いくつもの家、電柱が傾いていました。そして、津波によって海側の地域はまさに壊滅状態でした。全壊したのでしょうか、すでに更地にされているところもありました。半壊した家屋も津波で家の中は破壊されていました。家は残っていても、これではとても住めないと、感じる状態の家がいくつもありました。また、飯岡港では岸壁に打ち上げられ傾いている漁船がありました。津波によって倒壊した家や使い物にならなくなった家財度具などの瓦礫は休校した中学校の校庭に運ばれていました。私たちが伺ったときにはその場所が瓦礫でいっぱいになってしまい、現在は市の運動場に瓦礫が運び込まれていました。
現状を見る限り、被災地域に居住するのは当分困難と思われます。応急仮設住宅の準備や、千葉県が全県の県営住宅や職員住宅から準備した一時避難のための住宅を用意し、こちらも入居希望の募集が始まっていました。
千葉市方面から旭市に入る道路も通じていて物資も入ってきています。私たちが見た範囲ではガソリンスタンドでも列を作っていたのは一カ所でした。自動車は生活に必要な地域であり、瓦礫の撤去などにも重機のための燃料が確保されていることは重要です。
旭市の震災による災害は飯岡地区などの海沿いの地域に集中していました。旭市の市街地、国道沿いには大きな被害はないようです。しかし、余震の続く中での不安は非常に大きいと感じました。
<下は、瓦礫が撤去され、更地になっている被災地/写真撮影は吉高叶牧師> 今回、旭市をお訪ねして感じたことは、街の中に平素からコミュニティーが成立しているということでした。そのような土台が現在の被災者支援にも生かされていることを感じました。
限られた方としかお話しすることはできませんでしたが、「忘れられた被災地」といった思いをもたれているように感じました。今すぐに、連合、連盟としてすぐに何かできるという状況ではありませんでしたが、この地域を祈りに覚えることと少し長いスパンで目を向けていくことが大切だと感じました。
東京地方連合 会長 中田義直(市川大野)
旭市は千葉県北東部に位置し、九十九里の最北端にある街です。2005年に旭市と海上(うなかみ)町と飯岡町、干潟町と合併し新しい旭市になりました。
東北関東大震災では、地震と津波の被害に見舞われました。3月21日現在で12名の方が亡くなり、3名の方が行方不明の状況です。家屋の被害は、全壊339件、半壊164件です。このうち、全壊家屋の254件、半壊家屋の139件が津波による被害、その他は地震による、特に地盤の液状化によるものです。この被害は、海側の合併前の飯岡町に集中し、このような大きな被害がありましたが、今回の震災では東北地方の状況があまりにすさまじく原発事故という深刻な事態を抱える中、マスコミ報道などであまり目を向けられていません。千葉県の地方紙や地元テレビ局では取り上げられていますが千葉県内でも被害状況を把握していない方がいるのも事実です。
東京地方連合では、連合の地域である千葉県の被害にも目を向けたいと願っておりましたが今回、旭市出身の岩瀬礼氏(綾瀬小園教会主事、女性連合事務)の協力を得て現地を訪問する機会が与えられました。訪問日は3月22日、宣教研究所運営委員長で栗ヶ沢教会牧師の吉高叶氏に同行願い、岩瀬礼氏、中田の三名で旭市をお訪ねしました。
<右は、津波で破壊された家屋>
朝9時過ぎに岩瀬氏のご実家にお邪魔し、地震の時の状況を直接お母様から伺うことができました。非常に強い揺れを感じた時の恐怖や津波で被害を受けた地域のことなどお話ししてくださいました。続く余震、そして、千葉県東方沖を震源とする大地震の可能性に関する報道が重くのしかかっておられるようでした。「東北のような津波がきたらこのあたりも助からない」とたびたびおっしゃっていました。
お話を伺った後、ご案内いただき海上公民館と飯岡保健福祉センターに設けられた避難所をお訪ねしました。訪問した時間は、避難所から被災した家屋や家財道具の片付け、仕事に出られている方が多くおられるとのことでした。飯岡保健福祉センターは、ボランティアセンターともなっており私たちがお訪ねしたときも、係の方はボランティア希望の方と電話で打ち合わせをしておられました。突然の訪問にもかかわらず、赤十字のボランティアの方が避難所の状況やボランティアの受け入れのことなど丁寧に説明してくださり、大変恐縮しました。
飯岡保健福祉センターへ向かう途中、もっとも被害の大きかった飯岡地区を訪ねましたが、飯岡地区に至る道は海に近づくにつれ液状化で道が上下にうねり、いくつもの家、電柱が傾いていました。そして、津波によって海側の地域はまさに壊滅状態でした。全壊したのでしょうか、すでに更地にされているところもありました。半壊した家屋も津波で家の中は破壊されていました。家は残っていても、これではとても住めないと、感じる状態の家がいくつもありました。また、飯岡港では岸壁に打ち上げられ傾いている漁船がありました。津波によって倒壊した家や使い物にならなくなった家財度具などの瓦礫は休校した中学校の校庭に運ばれていました。私たちが伺ったときにはその場所が瓦礫でいっぱいになってしまい、現在は市の運動場に瓦礫が運び込まれていました。
現状を見る限り、被災地域に居住するのは当分困難と思われます。応急仮設住宅の準備や、千葉県が全県の県営住宅や職員住宅から準備した一時避難のための住宅を用意し、こちらも入居希望の募集が始まっていました。
千葉市方面から旭市に入る道路も通じていて物資も入ってきています。私たちが見た範囲ではガソリンスタンドでも列を作っていたのは一カ所でした。自動車は生活に必要な地域であり、瓦礫の撤去などにも重機のための燃料が確保されていることは重要です。
旭市の震災による災害は飯岡地区などの海沿いの地域に集中していました。旭市の市街地、国道沿いには大きな被害はないようです。しかし、余震の続く中での不安は非常に大きいと感じました。
<下は、瓦礫が撤去され、更地になっている被災地/写真撮影は吉高叶牧師>
限られた方としかお話しすることはできませんでしたが、「忘れられた被災地」といった思いをもたれているように感じました。今すぐに、連合、連盟としてすぐに何かできるという状況ではありませんでしたが、この地域を祈りに覚えることと少し長いスパンで目を向けていくことが大切だと感じました。
東京地方連合 会長 中田義直(市川大野)
by bapren
| 2011-03-24 23:37
| 被災地にある諸教会より